昔からこの曲が好きで、でもこんな経験はなくて、いわゆる「存在しない記憶」として僕の中にこの曲はあった。
キリキリと痛むような心を仮想的に僕は抱えていた。
唐突に、現実になった。存在しない記憶は明確に実在する記憶になった。どころか、現実を要約してくれる歌詞になった。
……とかいう個人的な話はさておき、小田桐仁義さんは一人で全てをやっているとは信じられないくらい凄まじくいい音楽を書く。
端々にThe Beatlesの風を感じつつ、それでいながら現代的な遊び心を感じるところが大好きなのだ(願わくば、DAMで配信されて欲しい…)。
概観
構図はありきたりな「僕」あるいは「自分」と相手の二人の話。
失った 正解も見失った
ain't no hope もう参りました
ain't no hopeって文法的に合ってるんだろうか?なんて野暮なことが一瞬過ったが、つまりこの節では『ぜーんぶ、なくなっちゃった』ということ。何を失ったか、皆まで言わせるな、という感じだろうか。
She's gone
僕の手にはもう何も残っちゃいない
goneは亡くなった、とも解釈できる。でも単純に捉えたら『行ってしまった』とも捉えられる。僕は後者で考えている(そうした方が対象が多くなりそうだしね)。
とにかく前節の「失った」ことへの修飾となる節。
金輪際
幸せを求める事はやめました
喪失感への“現状の”解答。
もう全て諦めたということなんだろう。
それぐらい、「失った」ものは大きかったということを表しているのだろう。
卑屈で退屈な人生を
喪失だらけNo future world
これは曲を聴いて欲しい(というか大体全ての節に関してだが)のだが、リズムの取り方が本当にいい。
と同時に歌詞は暗すぎる。だってもう『未来のない世界』なんて。絶望の底すぎる。
ありきたりな風景に 夫婦で2人
不確かだけど
未来を思い描いていたのに
これで具体的な「僕」と相手の関係性が見えてくる。
「僕」は結婚まで見据えていた。と、言っても恐らく具体性はなかったのだろう。いつご挨拶して、いつ籍を入れて、なんてことまで具体化はしていなかったけれど、ただ漠然と“一般的な夫婦”になるんだろうなあ、なんて思っていたのだろう。
いつだって そう
ぼくが傷つけてたよね
お願い許して もう
会う事はないけど
思い返せばあれも良くなかった、これも良くなかった。
よくなかったな、と気がつけば謝りたくもなるが、もう関係が切れてしまって後の祭り。
それも、もう会うこともないくらいの関係性になってしまえば心の中で謝罪するしかない。
行き場のない感情が「ぼく」の中に残る。
なぜ、ここで「僕」が「ぼく」になるのだろう?時間軸のズレかな(今は「僕」だけれど、昔は「ぼく」)、とも思ったり、もっと言えば今の「僕」とは“絶対に”違う、相手を「傷つけ」るような存在を「ぼく」と言っているのか。
愛を被って葬った
南無阿弥陀唱えお陀仏
成仏して二度と囁かないで
「被って」にはやや被害者意識を感じざるを得ないが、つまりもうこのことを綺麗さっぱり思い出させないで欲しい、という意思表示なのだろう。
もっと「被って」を拾うと、元はと言えば告白されて付き合い始めた関係性なのだろうか、と邪推はしてしまう。
さようならも夏の雨も
突然の出来事
通説として『女心と秋の空』とは言うものだが、確かに夏の夕立も唐突ではある。
おそらくそれに近いものだろうと想像する。
有無を言わさず降り注ぐ
独り身の夏 身に染む
さようならのサマーレイン
天候はヒトがコントロールできるようなものではない。降り始めれば、それを浴びるしかないのである。
相手の心変わりで降らせた雨、もとい言葉を浴びるしかないのである。
そして、別れてしまった後もなお続く夏。
夏は楽しもうと思えば楽しいはずだが、“何もなければ”ただ暑いだけの季節。それが身に染みてくる。
すごく綺麗な一節と思う。頭から最後までが一貫されている。心はもちろん痛いけれど…
でもとびきりのサマーエッセンスで
2人きりの瞬間が戻らないかなんて
ちょっと期待してる自分もいるし
哀しい俺様に酔ってる自分もいる
なんちゃって
展開が少しだけ変わる。
『もう一度、やり直せないかなあ』『こんな風に振られたの、かわいそうじゃない?』という二つの考え。
大抵の失恋後の話なんてこの二つだと思う。特に二つ目に自ら至る人間はそんなに傷ついていないと思う。いや、傷ついていないフリをしているだけなのか…?
なんか後ろめたいようで
あれから逆さまの太陽が
同化したような日々過ごして
笑って泣いて泡となって
これは最も解釈しづらい節だと思う。
前節を受けて、「後ろめたい」のは失恋話としてこの話を仲間内で(意図せず)拡散してしまったことではないか。
それ以降はそういった『後悔』というか、『罪悪感』も背負って昼夜逆転もしかねない生活で「笑って泣いて」を過ごして辛かった思いを無理矢理にでも「泡」にしたこと。
愛を被って葬った
南無阿弥陀唱えお陀仏
成仏して二度と囁かないで
復唱の節。
だが、歌を聴けばわかるけれど、最後の1行は少し早めに述べる歌い方になっている。
とにかく一刻も早く消し去りたい思いを表しているようにも感じる。
さようならも夏の雨も
突然の出来事
有無を言わさず降り注ぐ
独り身の夏 身に染む
さようならのサマーレイン
ここも復唱。
私はここに何か言及するところはないが、辛い別れはいくらでもフラッシュバックすることを表しているのだろうか。
その姿を最後の目を
まだ覚えてるのは
決して未練なんかじゃない
女々しい事はもう言わない
さよならのサマーレイン
歌としてはこの節のために前節を復唱したのかな、なんて考えたりもする。
最後にフラれたときの目を覚えていたって、それは別に未練があるわけじゃないと、後半の節はきっと強がりなんだろうなと思う。
この「女々しい事」は「2人きりの瞬間が戻らないか」と同じようなことだろうと思う。要するに、寄りを戻したいという=未練になること。でも、それを断ち切ろうというのがこの節である。
あの時のあの夏に
戻って踊れたならいい
その手を引きそっと抱いて
笑って踊れたならいい
あの時のあの夏に
戻って踊れたならいい
その手を引きそっと抱いて
笑って踊れたならいいな
ここは私は完全に空想の出来事だと解釈している。
あのとき、ああしていれば違ったかもしれない、と。
最後だとしても、笑って終われていればよかったなと。
現実はこれだけ「僕」が苛まれている。
続くにせよ、終わるにせよ、もっといい形があったかもなあ、というあれこれとした思案が余韻で残る。
感想
端的に言うと、私のこの夏だった。
特にこの2024年の夏は夕立のような突然の雨も多く、思うところが多かった。
私はこの歌詞のように、『漠然と夫婦を思い浮かべる』こともしていた。色々な人に色々な話をして、苛まれて、どうしたら違っただろうなんて考えて…
やたらと言葉を並べることは得策ではない気がする。この歌は私のこの夏を投影していると言っていいと思う。ただ、もう「笑って踊」ることはできない。