備忘録

無くしたくないものを残すための場所です。

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n年越しのドラムセットからの眺め

久しぶりに人前での演奏をした。

もちろんある程度クローズドな会ではあったが、やはり一段上がった上で演奏するというのは恐らく2年ぶり?くらいだろうか。

そこでたくさん思ったこと、見に積まされたこと、それを一応記録までに。

良かったこと

そんなん、最低限のドラム技術が残っていたこと以外ない。

エイトビートできるぞー、簡単なオカズなら叩けるぞー。

それから、個人的な感情については、やはり人前に立つのは楽しかった。ハッキリわかるぐらいアドレナリンの分泌を感じた。あんなのは他の何にも代えられない。久しぶりに“いい汗”というやつをかいた気がする。

反省点

そもそもとして、私は自己肯定感が低いので日々反省である。つまり、こんな日は反省することは山ほどあるのである。

そして、改めて考えると全ては「練習不足」に集約される。ただ、それだけでは後年の私が困るので、細分化してみた。

一つ目としてわかりやすいのは「演奏の曖昧さ」である。もっと緻密に、なんなら譜面を書くまでやればもっとよかったはず。大まかな展開自体を私は間違えた覚えはない(実際責められなかったし)が、細かいオカズについては何一つ合っていなかったかもしれない。ただ、これについては日々自分の見解が変わっていて、忠実に音源を再現することに価値はないかもしれない(なぜなら本元の演者が忠実さを求めていない可能性があるから)。

二つ目に「周りをみることができなかった」ことである。バンドは言い換えればグループワークである。それを考えれば周りのギター、ベースなどの奏者とアイコンタクトしあわなくてはならない。しかしその頻度が明らかに少なかった。これは周りを見られるだけの余裕を持てなかったと言うことに他ならないだろう。練習、しようね。

三つ目として「リズムキープ」を挙げる。これは自分に求められることの中でかなり大きいと思うし、リズムキープが他のドラマーに比べて評価されていたのにもかかわらず、これではいいところなしである。一般的なドラマーよろしく、やはりフィルインでハシったりモタったりした感覚が淡くある。そうならないためにも練習がやはり足りなかったんだろう…

総括

やっぱり練習が足りなかったよ。

課題ならいくらでもわかっていたのに。スティックコントロールの甘さ、曲構成の把握、歌詞の記憶、その他諸々。

やる気はあったし時間がなかったとも言い訳したくない。

もっと音楽を楽しむためにも努力を惜しまないように自分に改めて強く戒めておきたい。

少なくとも、「私ってこの人よりも下手だなあ…」と一端に凹む資格が欲しいならちゃんとやらなくちゃいけないよね。

この夏の要約 サマーダンス / 小田桐仁義

昔からこの曲が好きで、でもこんな経験はなくて、いわゆる「存在しない記憶」として僕の中にこの曲はあった。

キリキリと痛むような心を仮想的に僕は抱えていた。

唐突に、現実になった。存在しない記憶は明確に実在する記憶になった。どころか、現実を要約してくれる歌詞になった。

……とかいう個人的な話はさておき、小田桐仁義さんは一人で全てをやっているとは信じられないくらい凄まじくいい音楽を書く。

端々にThe Beatlesの風を感じつつ、それでいながら現代的な遊び心を感じるところが大好きなのだ(願わくば、DAMで配信されて欲しい…)。

 

概観

構図はありきたりな「僕」あるいは「自分」と相手の二人の話。

失った 正解も見失った

ain't no hope もう参りました

ain't no hopeって文法的に合ってるんだろうか?なんて野暮なことが一瞬過ったが、つまりこの節では『ぜーんぶ、なくなっちゃった』ということ。何を失ったか、皆まで言わせるな、という感じだろうか。

She's gone

僕の手にはもう何も残っちゃいない

goneは亡くなった、とも解釈できる。でも単純に捉えたら『行ってしまった』とも捉えられる。僕は後者で考えている(そうした方が対象が多くなりそうだしね)。

とにかく前節の「失った」ことへの修飾となる節。

金輪際

幸せを求める事はやめました

喪失感への“現状の”解答。

もう全て諦めたということなんだろう。

それぐらい、「失った」ものは大きかったということを表しているのだろう。

卑屈で退屈な人生を

喪失だらけNo future world

これは曲を聴いて欲しい(というか大体全ての節に関してだが)のだが、リズムの取り方が本当にいい。

と同時に歌詞は暗すぎる。だってもう『未来のない世界』なんて。絶望の底すぎる。

ありきたりな風景に 夫婦で2人

不確かだけど

未来を思い描いていたのに

これで具体的な「僕」と相手の関係性が見えてくる。

「僕」は結婚まで見据えていた。と、言っても恐らく具体性はなかったのだろう。いつご挨拶して、いつ籍を入れて、なんてことまで具体化はしていなかったけれど、ただ漠然と“一般的な夫婦”になるんだろうなあ、なんて思っていたのだろう。

いつだって そう

ぼくが傷つけてたよね

お願い許して もう

会う事はないけど

思い返せばあれも良くなかった、これも良くなかった。

よくなかったな、と気がつけば謝りたくもなるが、もう関係が切れてしまって後の祭り。

それも、もう会うこともないくらいの関係性になってしまえば心の中で謝罪するしかない。

行き場のない感情が「ぼく」の中に残る。

なぜ、ここで「僕」が「ぼく」になるのだろう?時間軸のズレかな(今は「僕」だけれど、昔は「ぼく」)、とも思ったり、もっと言えば今の「僕」とは“絶対に”違う、相手を「傷つけ」るような存在を「ぼく」と言っているのか。

愛を被って葬った

南無阿弥陀唱えお陀仏

成仏して二度と囁かないで

「被って」にはやや被害者意識を感じざるを得ないが、つまりもうこのことを綺麗さっぱり思い出させないで欲しい、という意思表示なのだろう。

もっと「被って」を拾うと、元はと言えば告白されて付き合い始めた関係性なのだろうか、と邪推はしてしまう。

さようならも夏の雨も

突然の出来事

通説として『女心と秋の空』とは言うものだが、確かに夏の夕立も唐突ではある。

おそらくそれに近いものだろうと想像する。

有無を言わさず降り注ぐ

独り身の夏 身に染む

さようならのサマーレイン

天候はヒトがコントロールできるようなものではない。降り始めれば、それを浴びるしかないのである。

相手の心変わりで降らせた雨、もとい言葉を浴びるしかないのである。

そして、別れてしまった後もなお続く夏。

夏は楽しもうと思えば楽しいはずだが、“何もなければ”ただ暑いだけの季節。それが身に染みてくる。

すごく綺麗な一節と思う。頭から最後までが一貫されている。心はもちろん痛いけれど…

でもとびきりのサマーエッセンスで

2人きりの瞬間が戻らないかなんて

ちょっと期待してる自分もいるし

哀しい俺様に酔ってる自分もいる

なんちゃって

展開が少しだけ変わる。

『もう一度、やり直せないかなあ』『こんな風に振られたの、かわいそうじゃない?』という二つの考え。

大抵の失恋後の話なんてこの二つだと思う。特に二つ目に自ら至る人間はそんなに傷ついていないと思う。いや、傷ついていないフリをしているだけなのか…?

なんか後ろめたいようで

あれから逆さまの太陽が

同化したような日々過ごして

笑って泣いて泡となって

これは最も解釈しづらい節だと思う。

前節を受けて、「後ろめたい」のは失恋話としてこの話を仲間内で(意図せず)拡散してしまったことではないか。

それ以降はそういった『後悔』というか、『罪悪感』も背負って昼夜逆転もしかねない生活で「笑って泣いて」を過ごして辛かった思いを無理矢理にでも「泡」にしたこと。

愛を被って葬った

南無阿弥陀唱えお陀仏

成仏して二度と囁かないで

復唱の節。

だが、歌を聴けばわかるけれど、最後の1行は少し早めに述べる歌い方になっている。

とにかく一刻も早く消し去りたい思いを表しているようにも感じる。

さようならも夏の雨も

突然の出来事

 

有無を言わさず降り注ぐ

独り身の夏 身に染む

さようならのサマーレイン

ここも復唱。

私はここに何か言及するところはないが、辛い別れはいくらでもフラッシュバックすることを表しているのだろうか。

その姿を最後の目を

まだ覚えてるのは

 

決して未練なんかじゃない

女々しい事はもう言わない

さよならのサマーレイン

歌としてはこの節のために前節を復唱したのかな、なんて考えたりもする。

最後にフラれたときの目を覚えていたって、それは別に未練があるわけじゃないと、後半の節はきっと強がりなんだろうなと思う。

この「女々しい事」は「2人きりの瞬間が戻らないか」と同じようなことだろうと思う。要するに、寄りを戻したいという=未練になること。でも、それを断ち切ろうというのがこの節である。

あの時のあの夏に

戻って踊れたならいい

 

その手を引きそっと抱いて

笑って踊れたならいい

 

あの時のあの夏に

戻って踊れたならいい

 

その手を引きそっと抱いて

笑って踊れたならいいな

ここは私は完全に空想の出来事だと解釈している。

あのとき、ああしていれば違ったかもしれない、と。

最後だとしても、笑って終われていればよかったなと。

現実はこれだけ「僕」が苛まれている。

続くにせよ、終わるにせよ、もっといい形があったかもなあ、というあれこれとした思案が余韻で残る。

感想

端的に言うと、私のこの夏だった。

特にこの2024年の夏は夕立のような突然の雨も多く、思うところが多かった。

私はこの歌詞のように、『漠然と夫婦を思い浮かべる』こともしていた。色々な人に色々な話をして、苛まれて、どうしたら違っただろうなんて考えて…

やたらと言葉を並べることは得策ではない気がする。この歌は私のこの夏を投影していると言っていいと思う。ただ、もう「笑って踊」ることはできない。

価値観とさようなら グッドバイ/ toe

このタイトルを冠する作品は数多ある。楽曲に限らず、小説でも。

何に別れを告げるのか。

それはそれぞれだと思う。では、この曲では?

出典: https://www.uta-net.com/song/269275/

概観

少しだけ達観したような、やや厨二病というか。

この歌詞は英語でありながら、しっかり対訳が作られている。

There is no one can understand me truely

I do not go out and I will keep silence

どうせ うまく説明できないし 外にも行かず 黙っているよ

英詞だけ読むと、『どうせ誰も僕を本当に理解してくれない』みたいなやや厨二がかった雰囲気を感じてしまう。少なくとも私はそう解釈していた。

しかし対訳を見るとどうやら違うようだ。

自分をうまく表現できず、齟齬が生まれる。故にもう今は外界との交流を絶って閉じこもるよ、ということになりそうだ。

きちんと読んでみて、韻の関係もあるとは思うが、歌詞として"don't"ではなく"do not"を使うのは強調表現かもしれない。現に、次の節で"don't"は出てくるし、自分の殻に閉じこもることに対する強調なのだろうか。

Everyone is mania in general

You don't have time to sleep

For to know others

躁病がデフォルト 他人に夢中で 寝る暇もない

これは逆に対訳を見ると主語がわからなくなる。「躁病がデフォルト」なのは自分ではなく、みんななのだ。もっと緩く捉えると『みんな元気だなあ、元気すぎるなあ』になるのか。

そんな不特定多数を理解するために時間を費やしていたら、夜も眠れないよと。

It's more complex than how i used to thought

But already I know

The start is living life to the end

思っていたより複雑だった 既に知っている

はじまりは死ぬまでを生きる事だろう

おお、急に哲学的だ。

でもわかる。人生って気付かぬうち、物心つく前から始まっているのだから。色々とわかってきた頃には『生きている意味』みたいなものにぶち当たって、複雑で訳のわからない世界に立って想う。

結局、死ぬまで生きることが意味なのかもしれないと。

Everyone is mania in general

You don't have no time to sleep

For to know others

躁病がデフォルト 他人に夢中で 寝る暇もない

改めて復唱。

前述の部分があることで、『こんな死ぬまで生きるために君たち頑張っているの?』と思うと正に『こいつら狂ってやがる!』という感性になるのもまあわかる。

しかし、改めて見ると「デフォルト」なんて英詞に含まれていないのにズレていないと感じるのは、和製英語の浸透を感じざるを得ない。

I can't reach well is this another next anxiety?

A disruption and blinder

There is nowhere to go

うまく届かないんだ また 次の不安か?

分裂と目隠し その先はないんだ

ここから、原曲では日本語と英語が入り乱れる。それが不安や自分の気持ちそのままみたいなものを表しているんだろうか?

原曲では「その先はないんだ」としか歌われないが、英詞と照らすと『行く先がない』のだとよくわかる。

しかし、「うまく届かない」は冒頭の「どうせ うまく説明できないし」に繋がる。思っていることと伝えられることのギャップが苦しみに繋がる。

「分裂と目隠し」も、『伝えたいことと実際に伝わることのギャップ』と『伝わらないが故に自分の殻に閉じこもって目隠しをすること』を端的に言い表しているのか。

そうなって、もはや『行く先はない(=見えない)』ということになるのか。

感想

ただただ、暗かった。

でもこれって、誰もが思うことでは?と思ってしまった。長い人生、どこかでこんな風に思うことがあるのでは?と。

思ったことが伝わらない。もはや全て煩わしくなって、自分の世界だけでよくなって、どうすればいいかわからない。

初めに『厨二病めいた』という言い方をしてしまったが、これはもう、かくあるべき成長過程ではないかと思う。

とはいえ、この感じを深めると本当にうつ病のような感じにはなってしまう(かくいう私もうつ病を経験しているので、自分の意見が当たり前でないことは重々承知ではある)ので、なんとも言えないのだが、共感のある歌詞ではあると思った。

で、この歌では何と別れを告げたのか。

恐らく世俗、世間だろうと表面的には感じた。「外にも行かず 黙っているよ」からはそう感じざるを得ない。

しかし、これが内省的な話であるならば、もはやこの歌詞全体の世界観に別れを告げているのではないかとも思った。

行き先はない。それでも死ぬまで生きていこう。わかってもらえないことがあっても、なんでも生きていくためにはこんな考え方からも『さようなら』を告げて生きていく。そんな考え方や、ある種の『強さ』があってもいいのではないだろうか。

真に救いようのないとはこのことか Gloomy night / the pillows

Gloomy night、端的に言うと暗い夜の歌。

暗いっていうのは確かだと思う。ただ正直、“暗い”なんて言葉では済まされないくらいに辛い歌だと僕は思う。

 

the pillowsは明確にavex所属前後で雰囲気が変わると感じている。

一貫して「君と僕」な世界観であるのは恐らく変わりないが、前期は罹患中、後期は寛解後な雰囲気を感じる。

その括りでいくと本曲、Gloomy nightは後期だが、正直考えられないほど暗い。命を奪っていないかとすら心配になるほど。

でも、寛解でないとこの歌詞は書けないかもしれない。

出典: https://www.uta-net.com/song/105571/

概観

キミと自分。“キミ”は“自分”が信頼する(していた)誰か。

眩し過ぎる太陽を

弾き飛ばして

夜を呼びよせた

ここに居られなくなっても

隠れる森は

切り倒されて消えた

辛いときの人間にとって、目の前に広がる世界はときに「眩し過ぎる」。

「夜を呼びよせ」る方法はいくらでもあって、日が落ちるまで、人々が街から姿を消すまで引きこもることなど、いくらでもやりようがある。

でも、そうしていれば自ずと世俗から離れていく。今所属しているコミュニティから少しずつ離れて、いずれ「ここに居られなくなって」いく。

そうしていてもいずれは引きこもっていられなくなる。引きずり出されるのだ。

積み重ねた時間が

崩れ落ちるのを

記録のように

目は映すだけ

この歌詞が個人的に最も辛く感じた。ここに至るまでの人生、どれだけのことを「積み重ね」てきたか。

少なからず辛いことも、苦しかったことも可能な限り乗り越えてきた。でも、それを無碍にしてしまった。

そうして「崩れ落ち」ていく様を自分は見ていることしかできないのだ。なぜなら、それを止めるだけの力が自分に残っていないから。

誰もいなくなって

風の中でキミの名を呟く

心臓の音で眠れないんだ

前触れ無く止まっちまえよ

闇にまぎれて

こうなるともう自分の周りには誰もいない。

吹き曝し、自分を揺らす強い風が吹く中で信頼していた「キミ」の名前を呟いてみる。助けを求めるのか、ふと思い出しただけの懐古なのか。

そして、とにかく寝てみようとする。でも、呼吸を意識するとうまく息ができないことと同じように、心音がやたらと大きく聞こえて眠れなくなる。

煩わしいと思えば、自分の置かれた状況と重ねて『このまま消えてしまいたい』とさえ思ってしまう。電気の消えた部屋の「闇にまぎれて」。

簡単に頷けない

星座も理解出来ないままで

寂しさを洗うように

泳いでみるけど

息が苦しいだけ

星座を理解できる人間なんておよそ現代にはいないと信じているので、ここは解釈が難しかったが、『先人の言うことを簡単に納得できない』ということだと思う。

格言みたいなものに感銘を受ける人もたくさんいるし、私も共感する節はあるが、本当に切羽詰まった状態ではそんなことばもそんな言葉も何一つ響かないという状況を言っているのだろう。

「泳」ぐくだりはthe pillowsの代表作であるストレンジ・カメレオンにもあった。外界に出ることを指しているのだと思う。

例えば友人と会ってみたり、一人でどこかの飲食店で食事してみたり。どんなことであっても不幸の絶頂の自分よりも幸せそうで、「息が苦し」くなる。

キミの頬をつたう

涙の理由を

透明なまま受け止めれない

この歌詞が一番主人公の切羽詰まっている感じを出している。

信頼できる「キミ」が苦しんでいる姿すらも素直に『辛いんだね』と「受け止め」られなくなっている。

心の内では『どうせ大した悩みでもないんだろう』と冷たいことを思ってしまう。だからこそ、悩み苦しんでいる「キミ」に真に優しくしたり、思い遣ることができなくなってしまう。

最低だ、とわかっていても。

もう会えないだろう

なりたかった自分を

裏切った

剥製になって時を止めて

魂を手放しちゃえよ

闇にまぎれて

結果的にキミどころか自分のことも「裏切っ」てしまう。

そりゃそうだ。これだけ繊細な人間は『誰にでも優しく、共感できる人間』になりたかったはずなのに。

何一つ達成できなかった「自分」は最終的にその身体だけを保って、心を失うことを祈るしかない。

心がないまま、何になりたかったのかも忘れて、ただ虚空のまま生きていくことを望むしかないのかもしれない。

感想

思っていた数倍、キツい歌詞ではある。

the pillowsのこのテの歌詞は「キミ」が最終的に自分を離れていると想像される。

大抵のミュージシャンは『紆余曲折あっても強く生きていこう!』みたいな感じなのに、この歌詞はただ単調に減少して終わっていく。

その先で上がるかはリスナーに任せられているのかもしれないが、本当に精神的に辛いときはこれに共感して終わっていく。

でも、そういう歌詞があっていいんだと思う。

変に上がり目を作られても、辛いときにはそれすら冷笑してしまう感覚はある。だからこそ、こういう歌詞でも誰かに勇気を与えられているんだと思う。

なによりも、こんな歌詞は罹患中は作ることはできない。刺さりすぎるから、心を如実に抉るから。

一度辛かった記憶から離れて、冷静に見ることができるようになったからこそ、人に勇気を与えられるのだと信じたい。

どんなことも自分の糧に 翌日/Syrup 16g

今日のその次の日を表す言葉。

一般的には「明日」という言葉が使われがちかもしれない。しかし、「翌日」もまた使われる言葉の一つである。

明日ではなく翌日をタイトルとしたこの歌詞について見ていく。

出典: https://www.uta-net.com/song/186817/

概観

非常に抽象的な歌詞である。

自分について見つめ直す、そんなあとはきっとこの歌詞のような言葉が頭をよぎるかもしれない。

嘘から抜け落ちた

裸の様な目で

美しいままの想像で

きっと一つ目のフレーズで歌われているのは現状の自分だろう。生きていく上でまみれた「嘘」から洗われた瞳、世界が少し美しく映るようなそんなとき。

ふがい無いまま僕が

受け入れるべきもの今

形に起こせないすべて

その自分が思い立った今の自分が「受け入れるべきもの」。それはきっと自分がこれまで目を逸らしていた自分の欠点や課題。具体的ではないが自分が乗り越えなくてはいけない「何か」=「形に起こせないすべて」にふと改めて気がつく。

急いで

人混みに染まって

あきらめない方が

奇跡にもっと

近づく様に

ここでサビのメロディに入る。日々の慌ただしさに引きずられ、「嘘」にも取り憑かれて生きていくよりも、気がつけた「形に起こせないすべて」と向き合うこと。

そうすればより素敵な「奇跡」に近づくことができるのではないか。

喧騒も

待ちぼうけの日々も

後ろ側でそっと

見守っている

明日に変わる意味を

これまで共にあった「喧騒」や、「形に起こせないすべて」を無視してきた、これまで自分が「待ちぼうけ」ていた日々もそっと見守ってくれる。自分が本当にするべきことに気がつけた今から「明日」に変わっていく姿を。さて、明日からこの歌詞の主人公はどんな生き方をしていくのだろうか。

感想

とても爽やかなメロディと前向きな歌詞。なかなかSyrup 16gの中では異彩を放つと言っても過言でない曲である。

現代の半ばレールの敷かれた社会で、周りと同じように義務教育を終え、高校や大学へ進学し、あるところで仕事に就く。当たり前のことではあるものの、皆それぞれどこか周りと合わせるために無理しているところがあるのではないだろうか。

一節目で歌われる「嘘」を拭うことは具体的にどのようなことかは人それぞれだと思う。

自分の生き方を見直させてくれるような感動的な体験。ある人との出会い。そんなに特別ですらない日常の今まで気が付けなかった景色を見たこと。あるいは、自らが挫けた時。

瞬間を切り取れば良いことでも、悪いことでも、どうということでもないかもしれないが、そんなことがあるといいだろう。

そのときに自分がどうあるべきか。劇的でなくてもいい。過去にあったこと、目を逸らしていたことと向き合う。そしてそれを解決することがもしかしたら自分にとってプラスに働くかもしれないと気がつくのだ。

最後に、この目を逸らしたことと向き合うことを志したその姿を過去のすべてが後ろから見守っている。その日から先の「翌日」以降の自分の姿を。

フランツ・カフカ著『変身』を読んで

2011年の読書感想文を原文ままでここに残す。

 

 不条理なことは日常に突如として起こりうることである。それは予期しえない事故であったり、記憶に新しいところでは地震をはじめとする自然災害もそうである。不条理文学、つまり脈絡なく日常が崩れる物語の代表としてこの『変身』はあまりにも有名である。

 この物語は父と母、妹と同じ家に暮らす会社勤めの青年がある朝、目を覚ますと毒虫の姿に変身しており、家族の今までの温かさもなくなり、終いには殺されなしまうという、いわゆるバッドエンドの物語である。

 私は救いようのない話や、後味の良いとは言いづらい作品が好きでこの作品を読もうと決めた。この『変身』は文学史上でも有名であるし、著者のフランツ・カフカの代表作でもある。しかし、それにしては少々暗く、重く、あまりにも救いようのない話すぎるのではないかと思った。

 何故これが、現代でも読まれ続ける名作なのか。

 もちろん、作品が読みやすい長さであることも一因であるだろう。だが、それよりも物語の内容である。確かに陰うつで、突然の始まりに読者はあまり良い印象を受けないかもしれないが、話が進むにつれて、主人公のグレゴール・ザムザという人物がわかってくる。元々は家庭内きっての働き手で、家計を支えていたと思われる主人公が、何の罪もなく毒虫になってしまったことで手のひらをかえしたようにやっかい者扱いされる様はあまりにも酷く、誰もが同情することであろう。童話ならばここで魔法使いでも現れてグレゴールを人間に戻してくれるだほうが、そういうわけにもいかない。あくまで現実は彼を救うことなく、最後は、一人欠けた家族が何ということもなく妹の将来を心配して終わってしまう。

 始めに述べたとおり、前触れのない出来事でもし自分が変わってしまったらどうだろうか。たとえ家族だとしても自分を支えてくれるのか。それは実に疑わしいことだと、この作品を読んで感じた。

 最近、親による子どもの虐待の事件が多く思える。元は両親にとって宝であったはずの子どもがふとした親の気まぐれや、いらだちで暴力を受け、最悪、死んでしまう。まさに、子どもからすれば『変身』のような状況である。

 児童虐待の例に取ると、「変身」したのは子どもではなく親なのかもしれないと思える。作中でもグレゴールだけでなく家族も変身してしまったのかもしれない。

 この疑わしい家族との信頼というものが、長年にわたって『変身』を通じて問われているならば、悲しい事件の多い現代においてより読まれ、この「家族」を「友人」などに置きかえて今いちど考えてみてほしい。本当に「変身」してしまったのは、相手ではなく、自分なのかもしれない。

 

当たり前だが、16歳そこそこの人間がやっつけで書いた文章なので、改良の余地アリアリである。